私たちの取り組む課題
仏教とは、お寺とは、お寺にいる人とは、何を為すべきなのでしょう?
我々の祖国日本は、統計上は世界有数の仏教大国です。
世界中の「仏教国」の中で、最も裕福で、最も強力な国の1つです。
しかし、私たちの社会に「仏教」はどんな役割を果たしているのでしょうか?
お葬式やいわゆる法事は、けじめという意味でも、グリーフケアとしても重要なことだと思います。
でも「仏教」って、葬儀や法事を執行すると言うことなのでしょうか?
日本には世界的にも希有な、古い古い文化財が大量に保存されています。
由緒正しい寺院には、素晴らしい仏教美術が遺っており、我々は気軽に観覧することができます。
でもそこに「ブッダの教え」はあるのでしょうか?寺院の役割は博物館と似たものなのでしょうか?
先人の努力、科学技術の発展によって、この国は素晴らしい先進国となりました。
世界に目を向けても、人類は様々な問題を克服してきました。
しかしどうも最近、特に「先進国」に於いては「心の問題」が取り組むべき課題として浮上しているように思えます。
社会の分断、孤独、いじめ、各種のハラスメント
搾取の構造による飢餓や貧困、暴力、テロ、紛争
環境汚染、資源の過剰収奪 etc..
これらはすべて、突き詰めればそれを行う「ひとのこころ」「ものの考え方」が具現化したものなのではないでしょうか。
いくら素晴らしい技術が開発されようとも、それを使う「ひとのこころ」がすさんでいたのでは、結局すさんだ結果が導かれるのではないでしょうか。
2500年前、インドに現れた「さとった人=ブッダ」はこの事を見抜き「心の制御」を教えました。
ブッダの教えは多くの人々に影響を与え、歴代の天才的修行者達によって磨き上げられ、その時、その土地に即して人々を導いてきました。
日本に於いては聖徳太子、聖武天皇、弘法大師、行基菩薩、鎌倉時代には叡尊、忍性、法然、親鸞、栄西、道元、日蓮など、数多くの祖師たちが活躍しその時々の日本に大きな影響を与え続けてきました。
では今、日本の仏教はどうでしょうか?
欧米では「マインドフルネス(観法)」「コンパッション(慈悲)」など、仏教由来の思想と実践法が注目され、先進企業などにも取り入れられて役割を果たしているようです。
相対性理論を唱えた偉大な物理学者アインシュタインは「現代の科学に欠けているものを埋め合わせてくれるものがあるとすれば、それは仏教だ。」と述べています。
人工知能の父と呼ばれるコンピュータ科学者マービン・ミンスキーは「人間の心についての智慧に、仏教以上の教えはない。」と言っています。
特にアメリカでは、多くの科学者や思想家達によって、自覚的にも無自覚的にも、仏教哲学の社会実装が実験されつつあるようです。
歴史的に土壌がなかった欧米で、いま仏教は大きく注目され、その真価が発揮されようとしています。
なのに日本では、どうして上手くいっていないのでしょう?
「歴史が邪魔をしている」
我々はそのように考えています。
もちろん重厚な歴史があるのは願ってもないアドバンテージです。
しかし、それが却って手足を縛り、行動を制限する枷となってはいないだろうか?
「仏教とはこういうもの(葬式法事)」
「お寺とはこういうもの(入場料を払って文化財を見に行く)」
そんな先入観と、それをもとにできあがった構造に縛られてはいないだろうか?
私たちは、そこを超えていきたいのです。
アインシュタインが言うように「これからの科学技術をおぎなうもの」としての仏教に
もっと可能性を見出したいのです。
この志を同じくする仲間が集まって、京都今出川に「実験寺院 寳幢寺」ができました。
土地建物は西陣織の工場跡地を貸して頂いています。
スタッフは全員ボランティア、費用は皆の持ち寄りです。
ここを拠点に、まずやってみる!
実際に、リアルにやってみる所からしか始まらないと考えます。
なぜこの課題に取り組むか
「仏教、かもしれない」
これが私たちのキーワードです。
「絶対仏教だ」と言いきるほどの確信はないし、そのような狂信性はありません。
私たちは普通の社会人や学生の集まりで、いわゆるプロのお坊さんは数名しかいません。
その「普通の社会人」である我々が行き着いたのが「仏教、かもしれない」という仮説です。
いまの、そしてこれからの、日本の、人類の様々な問題を解決に方向付けるのは、仏教かも知れない。
少なくとも千年を優に超える仏教の伝統を保有する日本に於いては、やはり仏教がベストなのではないか。そう思います。
しかし「いわゆる宗教」として取り組むつもりはありません。
自分がわからないことを信じるな、自分自身の理性こそを信じなさい。
それがブッダの教えだと理解しています。
「いわゆる宗教」としてではなくて、非常に高度で、豊かな思考と実践の体系を保持している仏教という体系を学び、その哲学、世界観をうまく取り入れ、利用することができたら、多くの問題は自然と解消していくのではないだろうか?
そう考えています。
その為には、どうやら上手く力を発揮出来なくなっている今の日本の寺院や僧侶を取り巻く環境を変えるしかない。
それは伝統的寺院の側からでなく、在家社会の側からやるべき事かも知れない。
お寺サイドは、自分たちの存在意義に無自覚、そして無作為に見えると言う事実があります。
一方、我々在家サイドもカルト宗教などのせいで過度の宗教アレルギーがありますし、明治以降、特に第二次世界大戦の敗戦以降、精神文化というものを軽視しすぎたという事実があるように思います。
これは「構造の問題」であって、個々人の責任に帰せられる問題ではないのではないかと思えます。
なので、我々は「旧来の日本仏教」ではない「新時代の仏教徒」として提案をしてみたいと思います。
檀寺が決まっていて、そこにお墓があって、仏壇に位牌があって、という事ではなくて、我々がリアルに生きている社会に、仏教哲学をインストールしてみる、と言う意味で。
そこに、どんなお坊さんがいて、どんなお寺があり得るのか?
どのように経済が回っていくのか?
寺院はどんな機能を保持し、どんな役割を果たしていくのか?
それは、実施実験する価値がある。
それは、これからの生き方の、ひとつの答えを提示するものにならないだろうか?
まず、やってみることから始めます。
寄付金の使い道
日本仏教復活の為、志と能力のある僧侶の育成にかかる費用として
我々は、我々の実験寺院に常駐する僧侶に「本物」であることを求めます。
まず第一点として、僧侶が自分のために経済活動をすることを禁止としたい。
僧侶は僧侶の本分を果たすべきであると考え、勉学、修行、説法という「仏教の導き手」に特化した存在であって欲しいと願っています。
その為に、他の仏教国では当然であって、日本だけが異常状態にある「僧侶は布施だけで生活する」という構造をつくりたい。
各種講演会などの実施の為の費用として
基本的な活動の理念として「いわゆるお商売」の形を持ち込みたくない。
様々なワークショップや講演会を実施していきたいのですが、参加費が負担であることを理由に参加出来ない人が出ることを避けたい。
布施、ペイフォワードの理念で、多くの方々が互いに支え合い、贈り合う仕組みを表現したい。