私たちの取り組む課題
1.小学生の子供たちの居場所づくりの運営の支援
2022年から「ふらっと・いかわ」という任意団体主導のもと、コープデイズ神戸西で「子どもの居場所づくり」事業が開始されました。月一回の頻度で行っています。TEARDROPSもそこに初期から運営に参画しています。2023年4月から「子ども食堂」が開始されています。
2.お寺での多世代交流イベント
伊川谷町にある「与楽寺」という奈良時代からの歴史をもつお寺で、2022年6月から月に一度、多世代交流イベントを開催しています。
今までには小学生向けの謎解きイベントを行っていたり、大学教授の方をお呼びして文学作品を扱った対話イベントを行うなど、幅広い世代の方の孤独・孤立支援の場所となることを目指して運営しております。
3.無料学習塾の運営
伊川谷町は無料で勉強できるスペースがあまりありません。このまま地域ごとに教育格差が開いていくことに疑問を持ち、2022年,2023年には夏休み期間に小学生向けの無料学習室を開放。2024年4月から中学生向けの無料学習塾を週に一度開校する予定です。
なぜこの課題に取り組むか
課題に感じていること
今の日本には「科学主義」の人が多いとわたしは感じています。
なんとか勇気を振り絞って挑戦しようと思っても「なんで?」「どうやって?」「ちゃんと計画したの?」そんな言葉しか飛び交わない世の中。みんな「完璧な計画(マスタープラン)」を見せないと動かない。
でも、日本のいままでの歴史と文化を見てほしい。
日本にある仏教や禅は、統合的な思想のはず。なのに、学校も社会の仕組みも「分ける」ことが当たり前になっている。
学校でも「国語」「理科」「算数」・・・。職業でも、一つの分野をとっても色んな役割の人がいて、いろんな名前をつけられています。
そのように分けているのは「区別するため」です。細かく分けて名前を付けて対象化することで、科学は発展してきたんです。
それを人間にまでに、求めてしまうのが、いまの日本の社会。
「ちゃんと言葉にしなよ」って聞かれて、言葉にできなければ「なぜちゃんと準備してないんだ」って言われる社会。
誰かが悪いわけではない。科学が発展してきて出来た仕組みがあふれている世の中だから、私たちも知らず知らずのうちに、人間までも区別して捉えようとしているのです。
「完璧な言葉にしないといけない」
そんな呼吸をすることも、ままならないような空間で、どうやって生きていけばいいのか。
活動拠点である伊川谷町の「農地」「お寺」「森」を用いた地域活性化を軸に、『居場所』について 模索している
About
立ち上げたきっかけ①
1つ目は、私が高校三年生の時。
私は昔から集団の中に居ることがすごく苦手でした。環境音が苦手なのか、四方八方で人が発する声が嫌いなのか、周囲に人が沢山いても強く感じてしまう"孤独感"が苦しいのか。何が原因なのか分からないけれど、昔から一人であることに慣れていた自分が居ました。
高校生の間は、塾に通っても続かないことが多く、家で、一人で勉強。でも集中も続かず、なかなか勉強もはかどらない。
そこで外に行って勉強しようと考える。でも当時知っていた勉強スペースは「カフェ」か「有料自習室」の2択。どっちにいってもお金がかかってしまう、と思いつつ入試が終わるまで有料自習室に通い、問題集を解く日々を送りました。
こんな日々を送っていてずっと思っていたことがありました。
「学校では子供に勉強しろというくせに、なぜ社会には(学生が)自由に無料で勉強できるスペースがないの?なぜ?大人は勉強しないの?」と。
この想いが、私と地元(伊川谷町)を結びつける大きな要因でした。
立ち上げたきっかけ②
2020年。新型コロナウイルスが蔓延した年。
私はこの年、ある国際交流系の学生団体のリーダーの立場にいました。「自分一人の選択が、会員一人ひとりの命を握っている」そんな選択の重さとプレッシャーに押しつぶされてしまいそうな毎日でした。
当時、TVなどのメディアでは総理大臣の記者会見や、不祥事を起こした芸能人の謝罪会見が絶えず行われていました。
「ああ。しょうもない」そんな気持ちで見れていたら楽だったのだけれど、どうしても記者に問い詰められている総理や芸能人と自分を重ねてしまう。
「なぜ?根拠は?」「ちゃんとまとまった言葉で話せてないだろ。ちゃんと明確な言葉にしなよ。」
そんな言葉ばかりが、自分の頭の中に飛び交いました。自分に問いかけられてるみたいで、すごく傷ついた。
「ああ。なぜこんなにも"完璧な答え"が求められてしまう社会なのだろう」
そして私はいつしか言葉を発することが嫌になりました。
そんなぼくの居場所に唯一なってくれたのが、NHKの「#8月31日の夜に」という番組でした。
その番組は、10代の人が「学校に行きたくない」「生きるのが辛い」という気持ちを共有できる場づくりを目指して放送されているのですが、ぼくはその番組で発せられる学生の言葉にすごく助けられました。
リーダーと不登校。生きづらさの種類は違うけれど、こんなにも痛みを共有できるんだな。そんなことを感じました。
「学校に行きたくない」「死にたい」そんな「名前のある痛み」に焦点が当たる世の中には少しずつなっている。でも、わたしはそういう「名前のある痛み」というのは、「名前のない痛み」を言語化できないから、存在しているし、頼るし、表現されると思っている。
でもリストカットをやめた瞬間のように、「名前のある痛み」として表現出来なくなった途端、生きづらいって言えなくなる。もう不登校じゃないでしょ。辛い思いしてないでしょ。痛くないでしょ。
そんな空気に飲まれてしまう。死にたい、消えたいっていう言葉にしないとふりかえっても貰えない。でも「死にたい、消えたい」と言葉に出して大袈裟に心配される雰囲気もどこか気持ち悪い。
目に見える変化や完璧に言葉にすることが、そんなに大事でしょうか。
目に見えるものじゃないと、お金にならないからでしょうか。
だからわたしは、「名前のない痛み」に耳を澄ますことのできる団体を作りました。
簡単に見ることも出来ないし、感じることがも出来ない、そんな「実存的変容」に寄り添うことができる団体を作ろうと思いました。
寄付金の使い道
寄付金は「子どもたちが使う物品・教材」「無料学習塾の講師の方への謝礼」「学習支援活動を行う場所代」に使われます。