ことばや知識を持つことにエンパワーメントされる
2025/8/17 00:53

ほぼ日ペースで更新するつもりが10日も間が空いてしまいました。6日、9日、15日というこの国のメモリアルデーがあったり、なんとなく夏休みっぽい予定がいくつも入っていたり、仕事もそれなりに詰まっていたり、そういう10日間でした。それから、同僚がハマっているようで職場で話に出る分、今年はひさしぶりに少しだけ甲子園の様子も気にしています。
さすがに記憶はない(あるわけない!)ですし、残っている写真も2歳くらいの私が父の膝に乗って笑っているものですが、たぶん49年前の今ごろ、母のお腹の中にいながら甲子園中継を見ていたと思います。それから中学3年までの8月は、ずーーーーっと甲子園からの中継を父と、弟と、1人でも見てきました(母は、それほど見たくはないけれどテレビがついていたから見ていた、という感じだったと思います)。
解説者や実況アナウンサーの声、バックネット裏にいつもいるおじさん、そういう風景とともに8月の私の傍らに甲子園がありました。準々決勝がすべて面白くて朝から晩までずーっと見ていた年もあります。小6のときは秋田経法大付属のエース中川くんを同級生が絵に描いていました。沖縄水産の2年連続の活躍もよく覚えています。
そういう夏を過ごしながら気が付いたら「高校生になったら甲子園を目指す」、そう思っていました。でも、私が高校生になった1992年は女性が硬式野球ができる環境はほぼなく、マネジャーですら甲子園のベンチには入れないような状況だったので、ソフトボール部に入るか、野球部のマネジャーになるかでかなり悩んだ末、マネジャーになりました。
当時、女性でも硬式野球にチャレンジしている人は少数ですがいたと思います。神奈川県という、いろいろなリソースにアクセスしやすい場所で高校生だった私には、何らかの方法は探せばあったかもしれないですが、相当運動が得意とか、身体能力が優れているとか、そういうことでもない限り、女性の私が硬式野球をやりたい、例えばマネジャーではなく選手でやらせてくださいなんて、とても言えませんでした。
野球がやりたいのに、見えないけれど確実に存在する停止線のようなものの存在によって、当たり前に諦めさせられたのですが、当時の私はそれを「仕方ないこと」と自分の中で処理していたと思います。そして「自分のこと」でしかないと捉えていました。女性であることを理由に制限されることは他にも山ほどあって、理不尽な思いをしている女性も数多存在するのに、周りには悉く目が向いていなかったなと思います。
ことばや知識を持つことがいかに大事かということを痛感します。甲子園が好き、野球が好き、でも女の私は見ることしかできない、そこで思考がストップしていて、男性によって巨大な権力集中装置となっている甲子園大会や高野連、あるいはこの国にある野球に関するあらゆる組織や構造に目が向くようになったのは、ここ数年のことです。そのきっかけは次回、書こうと思います。
ふぇみゼミで学びながら最近私が自分のことばとして習得できたなと思うものに「保護主義」があります。例えば、私が高校3年生のとき、それまでマネジャーもノックのときのボール渡し(ノックバットでゴロやフライを放つ監督にボールを手渡す役割)を担えたのに、「危険だから」とできなくなりました。確かに硬球は危険です。でも、マネジャーではなく野球がやりたかった私にとっては、好きな役割を、何の相談も試行錯誤もなく取り上げられた気持ちがしました。もちろん黙って従いましたが。
誰による誰のための「保護主義」かに注意を払わなければ、誰かの主体的な行動や自主性が奪われ、それを奪いたい人たちが望む構造が強化されてしまいます。あのとき女性マネジャーは男性たちによって「守られるもの」と位置付けられ、自分たちで選択する自由を奪われたと、今の私にはその構造がちゃんと見えます。
ふぇみゼミの活動が続き、そこで学ぶ機会が増えていくことで、誰の主体性や自主性も奪われない社会に近づけることができると思っていますので、ぜひバースデー・ドネーションに参加してください。まずはふぇみゼミのwebページをご覧になるところからよろしくお願いします!
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