DAY16『多様』
2025/12/2 17:22
多様とは、いろいろなものがあること。変化に富んでいること。とまぁこの言葉の解釈に人別の差異があると思わないので、なぜ昨今「多様性」という言葉をよく聞くようになったのか、少し調べてみた。
2000年代半ばから行政が「多文化共生」を打ち出した。2010年代前半にLGBTQ+施策(渋谷区パートナーシップ制度)で「多様性」が一般語に。2010年代後半のSDGsで「多様性の尊重」を口にし始め。2020年代のコロナ禍で「多様性」がスローガンからリアルな課題へ。というのがチャッピーからの回答。
多文化共生は外国人住民が増えたというのが背景にあるみたいだし、2000年代以降のネット環境やスマホの普及によるいろんな情報が見えるようになったというのも、「多様性」なる言葉がピックアップされたきっかけなんだろうなという理解。
はっきりいっておくけど「多様性の尊重」という言葉は嫌い。
話がそれるかもだけど、答えに合わせることが大事ではなくて、答えを求めるプロセスだったり、想定解と現実とのギャップだったり、そういったものが大切で、そのプロセスやギャップから何を学ぶのか、どうすれば求められる解にたどりつけるのか、そもそも想定解を変えないといけないのかということがとても大事だと思ってる。
けど、〇なのか×なのか。100点なのか0点なのか。そういうことばかりにフォーカスがあたっているのが現代社会のような気がする。白黒はっきりすることは個人的には大好きだけど、それはあくまでも現時点でどこにいるのかの話であって、なぜ白なのか・どうして黒なのか、っていうところの理由付けだったり、そうなることで次何をしていくのか、話を進めていくためのわかりやすさとして、白黒はっきりしている状態が好き。
答えっていうのと同じく好きじゃないものとして、線引き・カテゴライズがある。そりゃ、何かを判断するのに線を引くこと、要素を定めて属性をつけることは大事だと思う。それはあくまでも、判断軸・指標として有益なのであって、それが何か人格を否定することになるわけではなくて、ダメ認定されるっていうわけではないし、蔑むことにつかわれるものでは決してない。
一方で、好き嫌いは認めてほしい。あの人が好き、この人は嫌い。それは絶対にあるもの。個人の好みやものさしで、誰かが・何かが、何点だとか線を引くとか、こういう人だとカテゴライズすることは、ある。主観的なそれは人としてとても大事。
とまぁ、自分以外のだれかが決めた尺度だったり、表層的なものだけで、自分以外の誰か・何かを判断しないように生きていきたい。
こんな豪邸に住んでいるんだろうから双子を育てているけど支援は必要ないよね、とか。シングルマザーなんだから何かに必ず困っているよね、とかとか。〇〇というカテゴライズだから、△△しなければいけない・しなくてもいい、そんな単純なものではない。とはいうものの、いろいろ自分なりに考えた結果、この人は嫌いだからもう関わりたくない、はもちろんOK。
この世の中はずっと『多様』な人・モノ・コトでうめつくされているのだから、自分の目の前にあらわれた自分ではない何かを、自分なりにひとつひとつ判断することさえ心がけていれば、それだけでいいと思うんだよな。もっとシンプルに生きていきたい。
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