生き延びるだけでなく、生きるために。
シリア解放を迎えた今もなお、強制収容所で想像を絶する拷問を生き延びたサバイバーや、愛する人の消息を知らされないまま残された家族は、孤立と困窮の中に取り残されています。拷問や拘束による身体的・精神的な傷、学業や仕事を奪われた空白、そして家族を失った喪失感――それらは今も彼らの生活を根底から揺るがし続けています。
このプロジェクトは、そうした人々に「明日を尊厳を持って生きるための手段」を直接届ける取り組みです。単なる一時的な物資や現金の支給ではなく、一人ひとりの状況に沿って、自ら収入を得て生活を立て直せるようにすることを目指しています。仕立て仕事を再開するための道具、農作業の資材、小規模商いのための初期資金など、個々のニーズに応じた支援を行うことで、被害者が「援助に依存する立場」から「自立して未来を築く主体」へと歩み出せるよう後押しします。
これは、尊厳を取り戻すための第一歩であり、経済的自立への初期支援です。そして同時に、彼らの「生きる力」を守る最前線の活動でもあります。クラウドファンディングは11月末まで――限られた期間での挑戦です。そして、この取り組みは人道支援であると同時に、正義への第一歩でもあります。
Story
背景
アサド政権崩壊後のシリア ― 強制収容所のサバイバーと、未だ消息不明の人々の家族
2024年12月にアサド政権が崩壊するまで、同政権は14年にわたり自国民への弾圧の手段として、組織的な強制失踪を行ってきました。この国家主導の不条理な政策により、反体制派の活動家だけでなく、政権が「反政府的」とみなした一般市民もが標的となり、大規模で恣意的な拘束が行われました。これらの人々は収容施設に送られ、非人道的で劣悪な環境に閉じ込められ、身体的・精神的拷問を長期間にわたって受けました。政権崩壊後も、この凄惨な収容所のサバイバーや、未だ消息がわからない人々の家族は、深刻な身体的障害や計り知れないトラウマを背負いながら生きています。こうした人々はシリア全土に存在しますが、アサド政権支配地域では長きにわたり、その状況を訴えることすら許されず、沈黙を強いられてきました。一方、北西部地域などに避難した被害者も、脆弱なコミュニティの中で社会的・経済的に追い詰められ、不十分な生活を余儀なくされています。SSJは、移行期正義の理念に基づき、アサド政権下で被害を受けたすべての人々を中心に据え、強制失踪問題への取り組みを「人道的必要性」にとどめず、「シリアの長期的な再建の基盤」として位置づけ、緊急支援を開始します。
なぜ、強制失踪の被害者支援が今、最も緊急性を持つのか―。
それは、二つの要因によって説明できます。
第一に、生存者の社会的・経済的孤立。
サバイバーは通常、深刻な心理的外傷を抱えており、若年期に拘束された人々は、学業の中断、職歴の欠如から、仕事を通しての社会との融合に問題があることが多く、またいわゆる「働き盛り」で拘束された人々も元の仕事に復帰することができないだけではなく、雇用機会や社会的支援の欠落が彼らの社会への再統合を阻み、孤立と排除の負の連鎖を生み出しています。
第二に、家族の経済的・法的な不安定。
家計の主な担い手を失った家庭は深刻な経済的困難に直面しているものの、多くの場合、公的支援は限られています。失踪した家族の詳細は多くが不明で、死亡が判明している場合も本当の死因や遺体の行方は不明であり、補償はおろか、この喪失の原因となった者の責任を問うことすらできない状況は、家族の苦悩をより深いものにしています。
親戚縁者に細々と支えられているケースはありますが、このような状況の人々の生活に一歩踏み込んで取り組む組織はほぼ皆無です。解放後のシリア市民社会はこの問題を深刻に受け止めているものの、アサド政権によって壊滅状態となった社会インフラを背景に、再統合のための体系的な仕組みはまだ整っていません。以上を踏まえ、SSJは独自に、強制失踪の被害にあったすべての人々 ― 強制収容所のサバイバーと、残された家族 ― を対象とした経済的自立・社会統合を後押しするための活動を開始します。
支援対象者
(1)強制収容所を生き延びた人々
アサド政権は2011年以降、民主化を求める市民抗議の高まりに対し、いかなる者であれ「反体制」とみなして拘束し、刑務所や収容所に収監しました。そこで行われたのは、産業規模の拷問と処刑でした。その象徴が、日本でも大きく報道されたサイドナヤ軍事刑務所です。「人間屠殺場」とも呼ばれるこの収容所をはじめ、シリア全土に広がる強制収容施設では、確認されただけで10万人以上が不当に拘束されました。SSJの最新調査では、その実際の被害者数は70万人以上に及ぶ可能性が示されています。さらに、10万〜20万人が拷問の末に命を奪われたと推測されています。この現実を前に、「刑務所」という言葉は適切ではなく、SSJはこれらを「強制収容所」あるいは「絶滅収容所」と定義しています。
強制収容所は、アサド政権の諜報機関、政府軍、さらには民兵組織によって管理・運営され、シリア全土に張り巡らされています。象徴的な存在としてサイドナヤ軍事刑務所の凄惨さが国際的に注目を集めていますが、実際にはそれに匹敵するほど凶悪で悪名高い収容所が他にも数多く存在します。特に「251支部」や「215支部」や「パレスチナ支部」は、その劣悪な環境と暴力的な拷問によって、市民から最も恐れられてきました。一方で、アドラ市民刑務所のように、表向きは「一般的な刑務所」とされる施設も存在します。そこでは環境自体は強制収容所に比べればまだ良いものの、市民が不当に拘禁されているという点で、本質的に人権侵害の場であることに変わりはありません。
こうした非人道的な強制失踪と拷問を奇跡的に生き延びた人々は、長年「真実を語る権利」を奪われてきました。しかし政権崩壊後、ようやく多くがその経験を語り始めています。SSJはこれまでに二度シリアを訪問し、100人以上のサバイバーにインタビューを実施しました。証言はそれぞれ異なりますが、共通して語られるのは「次に何が起こるかわからない恐怖」と「終わりのない絶望」です。多くのサバイバーは現在40〜60代で、家族への責任を果たすべき時期に再出発の困難に直面し、無力感と葛藤を抱えています。その上、収容所での忌まわしい記憶がいまも彼らを苦しめています。
SSJは活動指針として、「国際支援の枠から取り残され、最も孤立する人々」に寄り添うことを掲げています。サバイバーが経済的自立を果たし、社会との繋がりを再び築けるよう支えること―それが私たちの使命です。
(2)突然夫や息子が強制失踪し、未だ行方がわからない、残された家族
アサド政権が崩壊し収容所が解放された今もなお、行方不明のまま取り残された家族は数えきれません。失踪者の多くは収容所内で惨殺され、シリア国内のどこかの集団墓地に無惨に埋められています。しかし、遺体が特定されず、拘束から殺害に至るまでの経緯も明らかでないため、死亡証明書すら発行されないケースが数多く存在します。その結果、妻は「未亡人」として認められず、子どもたちも法的な保護や経済的支援を拒まれる現実に直面しています。
母を失い、父の行方もわからないまま、祖父母に育てられている子ども。夫を失踪させられ、孤立した状況で家族を一人で養う女性。毎日、愛する息子が帰ってくるのではないかと待ち続け、十年以上経っても答えを得られない両親。物語はそれぞれ異なりますが、共通するのは「不在が終わらない」、「希望を持ち続ける」という苦しみと絶望です。
今回の支援は、単なる物質的援助ではなく、尊厳を取り戻し、正義を回復するための支援です。ご寄付くださった方のお名前を支援対象者に伝えるのは、それが「哀れみ」ではなく、人間の尊厳と正義をかけた連帯であるからです。支援対象者は、遠く日本に自分たちの苦しみを分かち合い、共に立ち上がる人々がいると知ることで、再び希望を紡ぐことができます。今回のプロジェクトは、寄付者と支援対象者をこれまで以上に強く結びつけることも目指しています。私たちは、この事業が家族の経済的自立と希望の再生に資するだけでなく、人道犯罪を正しく記録し、二度と繰り返させないための礎となることを願っています。
支援対象者の詳細インタビュー内容
1. バドルッディーン・ホジャ
バドルッディーン・ホジャさん(1961年生、アレッポ郊外マアッラト・アルティーク出身)は、財務省に勤務していましたが、2014年5月、自由シリア軍への支援物資提供や武器所持の容疑で通報され、拘束されました。まず国家治安局アレッポ支部に勾留され、その後、軍事治安局や空軍情報部などを経て、ダマスカスの収容所「251支部」へと送られました。当初はサイドナヤ刑務所に送致される集団の一員とされましたが、なんとかそれを免れ、アドラ市民刑務所(比較的待遇の良い一般刑務所)に収監されました。2020年12月に釈放されるまで、実に6年半にわたる収容生活を強いられました。
収監生活は過酷を極め、一日一食わずかなパンと米しか与えられず、シャワーは月に一度、冬でも冷水でした。
独房・集団房を問わず収容環境は劣悪で不潔であり、房外にトイレがある場合は「10を数える間」に済ませることを強制されました。尋問は常に拷問を伴い、ケーブルでの殴打、シャバハ(後ろ手で吊るす拷問)、タイヤに押し込めての殴打、熱湯を浴びせるといった残虐な方法が日常的に行われました。バドルッディーンさんは心臓疾患を抱えてステントを埋め込んでいましたが、拷問によってそれを踏みつけられ破損。体重は95kgから45kgまで激減しました。現在も足には拷問の痕が残り、痛みが続いています。
精神的苦痛としては、収容中は会話が禁止され、アドラ市民刑務所ではトイレ脇で寝ることを強いられ、人が頭上を行き交う屈辱的な環境に置かれました。治安当局の房内では多くの収監者が死亡し、自らの膝の上で息絶えた者もいたと語ります。また、女性を含む他の収監者が拷問で上げる悲鳴を耳にすることもよくありました。
家族はISに狙われてトルコに避難しましたが、アサド政権からも標的とされていたためシリアには戻れませんでした。面会が許されていたアドラ刑務所でさえ、家族や知人は報復を恐れて訪れられず、一度だけ来てくれた知人が、収監中唯一の面会人でした。外部との連絡を完全に断たれ、生死すら伝えられない孤立が、何よりも辛かったと振り返ります。釈放された今も家族とは合流できず、息子からのわずかな仕送りで孤独な生活を余儀なくされています。
バドルッディーンさんは寡黙な人物で、収監中のことを淡々と語りました。しかし他の証言と照らし合わせると、彼が口にしなかった、語るに耐えない経験が数多くあることが推し量れます。
2. ムハンマド・ウサマ・アブドゥルカーデル
ムハンマド・ウサマ・アブドゥルカーデルさん(1967年生、アレッポ郊外マアッラト・アルティーク出身)は、技術系高校の教師でした。現在は妻と息子、そして空爆で亡くなった息子の子どもと共に暮らしています。
2014年、息子がアサド政権軍を離反したことを理由に「テロリスト」とされ、拘束されました。アレッポの軍事治安局に勾留された後、ダマスカスのパレスチナ支部を経てアドラ市民刑務所に収監され、合わせて3年4か月の収容生活を強いられました。アドラ刑務所送りは「罪状の軽減」を意味する一方で、弁護士や判事に多額の賄賂を払わされたことを意味します。
拷問は苛烈を極めました。パレスチナ支部では激しい殴打により片目を失明、もう片方の目も大きく視力を失いました。耳の鼓膜も破れ、心疾患を発症し、手や奥歯も損傷しました。食事は日にパン半分やオリーブ数粒に限られ、体重は89kgから45kgへと激減しました。
パレスチナ支部では、3.5×4メートルの房に95人が押し込まれました。皆が足を抱えて折り重なるように座り込み、暴力的な尋問以外の時間も、その劣悪な環境そのものが人々を蝕みました。毎日のように死者が出る環境で、女性や子どもまで収監され、拷問時の叫び声がムハンマドさんたちの房まで響き渡ったといいます。収監者は名前を奪われ番号で呼ばれました。拷問で徹底的に痛めつけられた後の尋問では、その責苦から逃れたい一心で、屈辱的な虚偽の自白をせざるを得ませんでした。外部との連絡は遮断されていましたが、妻が必死に奔走して居場所を突き止めました。
今、ムハンマドさんは語ります。「私を拘束し拷問に関わったすべての加害者は、新しいシリア政権下で必ず責任を問われなければならない」。
3. アフマド・マハディ・ハッジ・オマル
アフマド・マハディ・ハッジ・オマルさん(1973年生、アレッポ郊外マアッラト・アルティーク出身)は元教師で、妻と5人の子どもと暮らしています。教育現場での歪んだカリキュラムに異を唱え、アサド政権の不条理に抗議してデモに参加したことから、2014年6月9日に「テロ活動」の容疑で拘束されました。国家治安局をはじめ複数の収容施設を経て、最終的にアドラ市民刑務所に収監され、2018年5月に釈放されました。拘束から解放まで、約4年に及びました。
収監中、彼は虚偽の罪状を「自白」させられるまで、執拗に拷問を受け続けました。クルバージュと呼ばれるムチ(先端が身体に巻きつき、肉を裂くような痛みを与える)による殴打で視力を失いかけ、電気ショックを性器にまで受けました。さらにシャバハ(後ろ手で吊るす拷問)や、軍靴で身体の敏感な部位を踏みつける暴行も加えられました。尋問のたびに異なる係官から書き付けられた「罪状」を読み上げられ、彼らの「気に入る」文言に至るまで拷問が繰り返され、最終的に強制的にサインをさせられました。
トイレの使用もまた拷問の一部でした。1日わずか2回、数秒間だけの使用を許され、失敗すれば殴打されました。アドラ市民刑務所では、反体制活動家は刑事犯よりもさらに冷遇されていました。裁判は形式的に行われましたが、自白の強要を訴えても一切認められず、最終的には約26,000ドルもの賄賂を払わされ、ようやく釈放に至りました。アフマドさんにとって、教育者として理不尽なカリキュラムに声を上げるのは当然の行為でした。しかしアサド政権下では、そのような倫理や正義は「罪」とされ、彼を拘束と拷問へと追いやりました。
4. ヤーシーン・モハンナド
ヤーシーン・モハンナドさん(1978年生、マアッラト・アルティーク出身)は、女子高校の校長を務めていました。しかし2015年4月、学校用燃料を着服したとの虚偽の通報により拘束されました。容疑は「テロ資金提供」や「反政府デモ参加」とされましたが、本人は革命活動に関与していません。
彼はアレッポで拘束された後、アレッポ国家治安局、ダマスカスの251支部といった収容所を経て、アドラ市民刑務所、ホムス刑務所、ハマ刑務所、アレッポ中央刑務所などに移送されました。計1年2か月の収監を経て、2016年6月に解放されました。
アレッポ国家治安局では暴行を受け、とりわけトイレが屈辱的でした。複数人が同時に入れられ、わずかな時間で用を済ませねばならず、失敗すれば殴打されました。ダマスカスの総合情報部ではさらに過酷で、入所時に裸にされ「歓迎パーティー」と称して鞭打ち、水責め、暴力が加えられました。
房は狭く過密で、ヤーシーンさんの証言によれば、5×5メートルほどの空間に40〜60人、多い時には90人近くが押し込められていました。食事は一日パン半分とわずかな米のみ。常に目隠しをされ、尋問と拷問は「必ずセット」で行われました。シャバハ(後ろ手で吊るす拷問)や電気椅子などが繰り返され、検問襲撃・武器所持・燃料隠匿といった虚偽の容疑を無理やり認めさせられました。軍事裁判では「燃料を自由シリア軍に提供した」との罪状にされ、アドラ刑務所に送られました。解放の決め手は、弁護士への多額の賄賂でした。
ヤーシーンさんが最も辛かったのは拷問ではなく、娘の誕生に立ち会えなかったことと話します。獄中で迎えた娘の存在に、会える日が来るのかどうかもわからず、解放された時、娘はすでに生後8か月になっていました。今でも当時の記憶を思い出すと、堪えきれない涙が流れます。
現在はその日暮らしの労働で生計を立てていますが、子どもたちにだけはきちんと教育を受けさせたいと願っています。そして語ります。「自分を含め、理由もなく拘束され生活を破壊された多くの人々。その加害者や責任者は、必ず国際法に基づいて裁かれるべきだ」。
5. ムハンマド・ドゥルービー
ムハンマド・ドゥルービーさん(1976年生、アレッポ市東部出身)は、妻と8人の子どもを養っていました。しかし2016年12月、「武装していた」との容疑で拘束されました。
彼はアレッポとダマスカスの政治治安局を経て、アドラ市民刑務所やアレッポ中央刑務所に収監され、計3年4か月に及ぶ拘束を強いられ、2021年に解放されました。ところが翌2022年、従兄弟が武装集団に属していたことを理由に再び拘束され、軍事治安局やアドラ市民刑務所を転々とさせられ、約1か月後に釈放されました。
最初の拘束では、初日から全裸にされ所持品を没収されました。尋問ではシャバハ(後ろ手で吊るす拷問)やクルバージュ(鞭打ち)による殴打を受け、屈辱的な言葉を浴びせられました。とりわけ「お前の妻をここに連れてきて裸にし、お前の目の前で辱めてやる」といった家族に対する侮辱は、肉体的拷問以上に耐え難かったと語ります。
ダマスカスでは監房での監視と暴行が常態化しており、尋問時には3日間連続でのシャバハや、冬の極寒の中で換気扇を回しながら冷水シャワーを浴びせられる拷問を受けました。食事は一日パン半分とわずかなスープのみで、5×7メートルの房に96人が押し込められていました。トイレもまた侮辱の道具とされ、1日1回数秒だけ許され、間に合わなければ容赦なく殴打されました。
彼は拷問死した収監者を目撃し、別の房から女性の悲鳴が響くのを聞きながら、希望を完全に失ったといいます。最終的に刑期満了で釈放されましたが、これも賄賂なしではどうなっていたか分かりません。出所後は足に後遺症が残り働けず、大きくなった子どもたちが生活を支えていますが、彼らも安定した職は持てていません。さらに、従兄弟のハサンも拘束され、死亡が確認されています。
ムハンマドさんは訴えます。「アサド一族は犯罪者だ。国連と国際社会は、シリア人の権利を取り戻すために行動すべきだ。そして、アサドとその一味によって奪われた財産を、市民に返してほしい」。
6. ムアタズ・イブラヒーム
ムアタズ・イブラヒーム・イブラヒームさん(1977年生、ハマ県タイベト・イマーン出身、48歳)は、妻と4人の息子と暮らしています。2013年3月、居住地区がアサド政権軍に包囲され、15歳以上の男子が一斉に拘束される中、彼も逮捕されました。
彼と兄弟は以前から、地元指揮官「サーメル」に目をつけられ、何かにつけて虐待や拷問を受けていました。この日も彼に連行され、デール・シュマイエル地区やハマ軍事治安局を経て、最終的にダマスカスの「215支部」に収容されました。そこでは体重が87kgから39kgまで落ち、母親でさえ見分けられない姿になってしまったといいます。
215支部の集団房は、わずか4×4メートルの空間に130人が詰め込まれていました。ほとんど裸同然の状態で、食事も水も極端に不足し、毎日20人以上が死亡しました。拷問はシャバハ(後ろ手で吊るす拷問)、電気ショック、タイヤに押し込めての殴打などあらゆる形態で行われ、失神すれば水をかけられ正気に戻され、再び拷問を受けました。死臭漂う中で遺体が運び出されると、その場はすぐに新たな収監者で「補充」されました。
ムアタズさんは語ります。「女性の拷問の叫び声や、高齢者が痛めつけられる姿は、今も決して忘れられない」。
その後、アドラ市民刑務所に移送され、ようやく家族との面会が叶いました。しかし釈放には多額の金銭が必要で、家族は土地を売って弁護士に賄賂を渡し、2014年2月、約1年に及ぶ拘束を経てようやく解放されました。
しかし同時に拘束されていた兄弟2人は215支部で命を落としました。遺体の所在も、どのようにして亡くなったのかも分からないままです。ムアタズさんは訴えます。「拘束に関わったすべての者、そしてアサド政権そのものの責任を、新しいシリアでは必ず追及してほしい」。
彼にとっての1年は、ただ「短い拘束期間」ではありませんでした。それは、苦しさに耐えかねる「死を願いながら生き続けた永遠の1年」でした。
7. リーナ・カイヤーリ
(本人の希望で顔写真は無し。リーナさんが居住するアレッポ東部の様子)
リーナ・カイヤーリさん(1983年生、アレッポ市東部出身、前述のムハンマド・ドゥルービーさんの親戚)は、夫が拘束されて以降、4人の子どもを抱えて生活しています。
長男は交通事故で片足を失い、杖を使って生活しています。次男(17歳)は仕立て屋で働き、週に20万シリアポンド(約2,285円)を稼いで家計を支えていますが、電気代だけで週7万ポンド(約800円)が必要で、生活は常に切迫しています。
2016年12月22日、夫はアレッポで治安関係者3人により車ごと連れ去られ、そのまま消息を絶ちました。リーナさんは必死に探しましたが、2週間は何の手がかりも得られず、40日後になって警察が簡単な聞き取りに訪れただけでした。
その後、ブローカーに7万5千ポンド(約195ドル)、さらに弁護士に20万ポンド(約515ドル)を支払った末に、夫の名前と死亡日が記された紙を手に入れました。そこには「2017年7月19日死亡」とだけ記されていました。戸籍局でも同じ日付の死亡記録を確認できましたが、死因も、遺体の所在も、一切の説明はありませんでした。
アサド政権が崩壊した今も、新たな情報は得られず、リーナさん一家は困窮した暮らしの中で、その日暮らしを続けています。それでも彼女は、愛する夫の行方と真実を知る日を待ち望み、正義が実現することを信じながら、明日の糧をどう得るかに苦しみ続けています。
(※2016年当時、1ドル=390シリアポンド)
8. ハスナ・ナーシェド
ハスナ・ナーシェドさん(1973年生、アレッポ市東部出身)は、2013年4月6日に夫を治安当局に拘束されました。それ以来、夫の消息は一切わからないまま、4人の子どもを必死に育ててきました。
夫はタクシー運転手で、仕事中に車ごと連行されました。空軍情報部に移送されたとの情報もありましたが、確かな目撃証言はなく、その後、伝手を通じて「サイドナヤ軍事刑務所に収監された可能性がある」と聞かされました。ハスナさんはダマスカスや各地の当局を訪ね、仲介人や弁護士に高額な金を払い続けましたが、生存情報も死亡確認も得られませんでした。
2013年の拘束から今日まで、一家は空爆を逃れて避難を余儀なくされ、今は息子(17歳)が荷役作業で週30〜35万リラ(30〜35ドル)を稼ぎ、家族を支えています。しかし収入は不安定で、娘3人も進学の機会を失っています。夫の消息を追う過程で、ハスナさん自身も治安当局職員から侮辱や暴行を受けました。それでも彼女は探し続け、アサド政権崩壊後の今も、夫の名前が公開リストに現れることを信じて確認を続けています。
ハスナさんは訴えます。「シリア新政府には、拘束者家族の生活を保障し、罪なき人々の権利を回復させてほしい。そして、不当拘束を行ってきた加害者の罪を必ず明らかにしてほしい」。
9. スィハーム・ムスタファ
スィハーム・ムスタファさん(36歳)は、2017年夏に夫を治安要員に連行されて以来、4人の子どもと共に困窮した生活を送っています。
夫は「ヌスラ戦線との関係」をでっち上げられ、アレッポの軍事治安局に4か月拘束された後、ダマスカスのパレスチナ支部を経て、サイドナヤ軍事刑務所に送られたと伝えられました。2018年、娘の就学手続きのため戸籍局を訪れた際、偶然夫の死亡記録を目にしました。夫の拘束当時、生後3か月の娘を含む幼い子どもたちを抱えていた彼女には、行方を追う余裕もなく、親族や近隣の助けを受けながら必死に生活を繋いできました。
現在は野菜の下拵え、掃除婦、家庭の家事手伝いなどの日雇い仕事で日銭を稼いでいます。しかし子どもたちは学校に通えず、長女は中学1年で退学。長男も働いていますが収入は不安定で、最近事故で片足を怪我してからは働けなくなり、医療費すら賄えず、一家の困窮はさらに深刻になりました。電気代さえ払えず、借家を追い出されたこともあります。幼い娘は父を知らず、家族全員が恐怖と飢えの中で生き延びてきました。
スィハームさんは訴えます。「シリア新政府には、未来のある子どもたちに普通の生活を保障してほしい。そして夫を奪った加害者たちは、必ず裁かれなければならない」。
10. アイシャ・バッカ
アイシャ・バッカさん(47歳)は、2017年頃に夫を拘束されて以来、女手一つで6人の子どもを育ててきました。
夫は仕立て職人でしたが、空爆の続くアレッポでは仕事を失い、やむなく武装集団に加わった後、夜間に連行されました。アレッポの軍事治安局に移送されたとされ、そこで生爪を剥がされるなどの拷問を受けていたとの証言を知人から聞いたといいます。
その後、夫はダマスカスに移送され、最終的にサイドナヤ軍事刑務所で死亡したと伝えられました。しかし実際の経緯は不明のままです。アイシャさん自身も失踪者関連のオフィスや市役所に繰り返し問い合わせましたが、書類も明確な情報も得られませんでした。夫の死を受け入れきれず、今もわずかな希望を抱きながら、低賃金の掃除婦の仕事で家計を支える苦しい日々を送っています。
犠牲は夫だけにとどまりません。2人の娘の夫もサイドナヤ軍事刑務所で死亡し、息子も13歳の時に不当に収監され、拷問を経験しました。家族ぐるみで耐え難い犠牲と生活困難に直面しながら、アイシャさんは訴えます。「アサド政権は不正義そのものです。シリア新政府には、人々が電気代や生活必需品の購入に苦しむような生活から抜け出せる環境を整えてほしい。そして加害者には、我々が受けた以上の報いが下されなければなりません」。
11. ハーディー・アブドゥルラフマーン
ハーディー・アブドゥルラフマーンさん(アレッポ出身、28歳)は、2015年、わずか17歳の未成年のときに軍事治安局アレッポ支部で拘束されました。
初日から全裸にされ、屈辱的な姿勢を強いられ、宗派差別的な罵倒を浴びせられながら殴打を受けました。拷問はシャバハ(後ろ手で吊し上げ)、緑色の水道管「アル=イブラヒーミー」と呼ばれる棒での殴打などが繰り返され、失神すれば冷水をかけられて再び暴行を受けました。
彼に突きつけられた容疑は荒唐無稽で、「2009年(革命以前)に亡くなった父が武装集団の一員として将校を殺害した」「当時14歳のハーディーさんが戦車を指揮してトルコへ逃亡した」といった、現実からかけ離れたものでした。抗議すると調査官からはこう言い放たれました。
「紙に書かれたことの方が、お前の言葉よりも、神よりも信じられる」。
63日間に及んだ国家治安局アレッポ支部での収容では、拷問死した収監者の遺体の隣で過ごすことを強いられ、看守による殴打や性的暴力が日常でした。タイヤへの押し込み、電気ショック、窒息を伴う拷問も繰り返され、女性や子どもの悲鳴が常に耳に届き、精神は深く蝕まれていきました。
その後ダマスカスに移送され、悪名高い251支部やパレスチナ支部を転々としました。パレスチナ支部では電気拷問により心臓が停止し、遺体置き場に放置されました。しかし偶然、下働きの職員が彼の生存に気づき、再び房に戻されたといいます。さらに248支部や285支部では、会話も睡眠も許されず、カメラで監視され、わずかな違反で拷問を受けました。
「拷問具として使われた緑のパイプを振り回しながら、『今日はジムに行けなかったから、お前の体で代わりに鍛える』と嘲笑した看守もいた。死体の横で三日間過ごしたこともある。監房の酸素が絶たれ、意識を失う恐怖の中で、命乞いのためにドアを叩いたが、その先にはさらなる拷問が待っていた」と彼は語ります。
最終的に調書作成後に釈放されましたが、2018年には再び拘束される経験もしました。
現在、仕事はなく、がんを患う母と、サイドナヤで夫を亡くした姉を支えています。自らも重いトラウマから精神疾患に苦しみ、「生きながら死んでいる感覚で日々を過ごしている」と打ち明けます。
それでも彼は、証言を語り続けることが「普通の人間に戻るための唯一の道」であると信じています。ハーディーさんは、自らを「死んだ生者」と呼びながらも、世界に真実を届けることで生きる意味を見出そうとしています。
SSJからのメッセージ
2024年12月8日、シリアの新たな始まり――シリア解放という歴史的瞬間を迎え、半世紀以上にわたる独裁と抑圧の時代が終わりました。シリアの人々はついに、祖国を独裁者アサドから取り戻したのです。
SSJは、この革命の成就を信じ、尊厳の回復のために立ち上がり、暗闇の中でも決して希望を失わなかったすべてのシリア人に、心からの敬意を表します。シリア革命はすべての殉教者、すべての被拘禁者、そして果敢に闘い続けたすべてのシリア人の勝利です。
しかし、シリア解放は革命の終わりではなく、その始まりにすぎません。強制収容所と強制失踪による深い傷はいまだ癒えず、家族は愛する人を探し続け、生存者は拷問の記憶に苛まれながら日々を生きています。真の正義はいまだ十分に果たされていません。だからこそ、移行期正義(Transitional Justice)の理念に基づき、加害者の責任を追及し、被害者とその家族を中心に据えた社会的・経済的な回復と再建を進めることが不可欠です。正義なくして未来のシリアは築けません。
SSJはこの新しい章においても、シリアの人々と共に歩み続けます。私たちは、正義が決して忘れ去られないように、そして尊厳と自立が取り戻されるように、長い年月をかけて傷を癒し、強固で包摂的なシリアを築くために尽力していきます。
さらに、SSJの取り組みは日本主導のイニシアチブとして、日本自身の戦後の経験を大切な背景としています。包摂的な政策が国の復興の基盤となった日本の歴史を踏まえ、私たちは「最も弱い立場にある人々を優先すること」こそが道義的責務であり、同時に持続的な平和と発展への唯一の道筋であると確信しています。
寄付詳細
3,000円
サバイバーや失踪者家族が小商いを始めるための基本的な道具(仕入れ用の容器や販売棚など)を整えることができます。
5,000円
小さな雑貨や食品を仕入れて、自宅前の小さな売店を始める第一歩を支援できます。
10,000円
商いを立ち上げるための道具や生活再建に必要な資材を整え、収入源をつくる力になります。
30,000円
自転車やバイクなど移動手段を整えることで、サバイバーが「働く足」を持ち、配達・運送・タクシーなど収入を確実に得られる環境をつくります。
50,000円
家族が安心して暮らすために帰還用の新居再建の一部を担い、故郷での再出発を後押しできます。
100,000円
一家全体の経済的自立を可能にする「包括的な支援パッケージ」(住まい+生業の立ち上げ)を実現する後押しになります。
特別支援枠
300,000円
一家を完全に再建し、自立へと導く「フルサポート」を提供できます。住まいの再建から小商いの立ち上げまで、家族が尊厳を持って再出発するための最も力強いご支援です。
このキャンペーンでは、支援対象者に対し、ご寄付者様のお名前をお伝えいたします。
(例:「日本の Mr. — / Ms. — / Mx. — からのご支援です」という形です)
※ご寄付者様のお名前が支援対象者以外に公開されることは一切ございません。
※ご希望に応じて、匿名でのご寄付も可能です。
SSJ団体説明
NPO法人Stand with Syria Japan(SSJ)は、2011年以降のシリア危機において人道支援と人権保護を専門とする、日本で唯一の非営利団体です。2016年の活動開始以来、「自由と尊厳を求めるシリアの人々」に寄り添い、日本国内での認知向上や政策提言、現地ジャーナリスト支援などの活動を展開してきました。シリア現地では、2022年に北西部イドリブで子どもたちへの初等教育支援を開始し、2024年からは同地域で雇用創出事業を実施。
アサド政権崩壊後はダマスカスとアレッポに新たなオフィスを開設し、強制収容所を生き延びたサバイバーや、強制失踪により愛する人を奪われた家族を対象に、経済的自立と社会的統合を支援しています。その基盤には、新政府機関や現地NGOとの協力体制があり、シリア社会が「被害者を中心に据えた正義」を形にしていくための、新しい支援モデルを構築しています。
さらに人道支援にとどまらず、司法面での正義実現にも取り組んでいます。「法と移行期正義ユニット(Law and Transitional Justice Unit)」を設立して、シリアにおける移行期正義の実現に向けた取り組みを強化しています。サバイバーと失踪者家族への聞き取り調査を独自に行い、そこで得られた証言をシリア新政権下で発足した シリア失踪者国家委員会(National Commission for the Missing) および 移行期正義国家委員会(National Commission for Transitional Justice) と共有。これにより、国家主導の犯罪行為に関わった者への法的措置を実現し、残された家族に法の下での正義をもたらすことを目的としています。私たちSSJはこれからも、日本とシリアをつなぐ架け橋として、最も脆弱で声を上げにくい人々に光を当て、シリアの未来を共に築いていきます。
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Instagram: ssj_syria_japan
Linkdin: standwithsyriajapan
[特別支援枠]一家を完全に再建し、自立へと導く「フルサポート」を提供できます。住まいの再建から小商いの立ち上げまで、家族が尊厳を持って再出発するための最も力強いご支援です
¥300,000