Issues we are working on
次世代を担う子供たちに自然の大切さ、共生、持続可能な営みを知ってもらい、実践する。
山廬とは?
蛇笏の別号であるとともに、蛇笏、龍太の居宅及び敷地の総称です。山という呼称は、蛇笏が「山の粗末な「建物」と自らの居宅を表現した創作です。主屋は江戸時代後期の建築。茅葺の屋根は明治期に瓦葺に、平成10年合板葺き替えられたが、柱など主たる部分は建築当時の状態を保っています。飯田家が代々名主の家柄だったことから、武家階級に許された「式台玄関」や書院式の座敷を備えています。主屋はいずれも10畳の間取りで土間などを含め建坪は50坪、付属の建物として「文庫蔵」「新座敷」などがあります。邸内の赤松は樹齢400年と推定され、三方に枝を広げた見事な姿です。また平成25年に「俳諧堂」が復元されました。裏には竹林が広がり、狐川が流れる。橋を渡るとそこを後山(ござん)と称しています。中腹に蛇笏書による山口素堂の「眼には青葉」句碑。蛇笏が建立した唯一の句碑です。丘の上に立つと甲府盆地、甲斐の山々が一望できます。山廬は後山を含め約3300坪の敷地となっています。
飯田蛇笏(明治18年〜昭和37年)
東八代郡五成村小黒坂(ひがしやつしろぐんごせいむらこぐろさか)(現笛吹市境川町)に生まれる。飯田家は農家であるが地元で代々名主をつとめる家柄の長男として育った。小さいころから大人に交じって俳句に親しみ、月並俳句の句会に参加していた。甲府中学、京北中学(東京)を経て早稲田大学英文科に進学。若山牧水らと親交、俳句、小説など積極的に発表。在学中から高浜虚子に認められ頭角を現す。早稲田大学中退後、生涯境川で過ごす大正4(1915)年創刊の俳誌「キラ」選者を経て主宰。「雲母(うんも)」と改め、大正、昭和の俳壇を牽引した。昭和7(1932)年第一句集「山廬集」を出版。句集、評論集、随筆集を多数出版。重厚かつ格調高い作風が特徴となっている。没後、その業績を記念して俳壇最高の賞「蛇笏賞」(角川文化振興財団)が創設された。
飯田龍太(大正9年〜平成19年)
東八代郡境川村小黒坂(現笛吹市境川町)に蛇笏の四男として生れる。小学校のころから国語に秀でており、小校1年の時、作文で表彰される。甲府中学卒業後、折口信夫が教鞭をとる國學院大学に進むが肺浸潤、肋骨カリエスを思い休学。帰省して農業をする中、農業雑誌「農業「世界」に論文を応募し入選する。大学を卒業するも、三人の兄が相次いで病死、戦死したことから生家を継ぐ。その後俳句に専念し、戦後俳壇に伝統派の旗手として頭角を現し、蛇笏没後は「雲母」を主宰する。平成4(1992)年8月、雲母900号で終刊。一切の作句活動を断つ。句集「百戸の谿」ほか100冊、随筆集、鑑賞集など多数。平成17年「飯田龍太全集」全10巻刊行。読売文学賞、日本芸術院賞恩賜賞、紫綬褒章。日本芸術院会員。平成25(2014)年NHK・NHK学園により「飯田龍太賞」が創設された。
Why we are tackling this issue
子どもたちに豊かな未来を約束し、自然がもたらす持続可能な社会のあり方を体験することで、自らの生活の活かしてもらう。
俳人飯田蛇笏(だこつ)、飯田龍太が生涯を過ごした山梨県笛吹市境川町(さかいがわちょう)小黒坂(こぐろさか)の居宅及びその敷地は「山廬(さんろ)」として皆様に親しく愛され、「俳句の聖地」として大切に守られています。今日も飯田家が居宅として使用しており、当主が維持管理をおこなっております。
この「山廬」をさらに充実した環境と、俳句文学を中心とした活動拠点とすべく、平成26(2014)年、非営利型の一般社団法人を設立いたしました。蛇笏生誕の日である4月26日を設立日とし、名称は「一般社団法人山廬文化振興会」といたしました。
本会は、会員相互が協力し、「飯田蛇笏」・「飯田龍太」及び俳誌「雲母(うんも)」に関する研究と資料収集、また「山廬」の維持管理保全を行なうとともに、文化・学術及びそれらの活動の支援、さらに地域の文化熟成を目的で設立いたしました。
子どもたちに豊かな未来を約束し、自然がもたらす持続可能な社会のあり方を体験してもらい、自らの生活の活かしていただきたいと考えています。
How donations are used
樹齢400年の松の手入れ資金。雑木林、子供たちの体験学習の場である里山の維持管理資金。