がんと闘うすべての人へ熱いメッセージを届けたい!フルマラソンチャレンジ

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認定NPO法人 マギーズ東京

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ゆっぽ

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    3人

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がんで大切なご家族を亡くされた方へインタビューを行いました②

2025/7/1 18:16

がんで大切なご家族を亡くされた方へインタビューを行いました②のメインビジュアル

みなさん、こんにちは😊✨ゆっぽです。

わたしは現在、12月7日に行われるフルマラソンチャレンジに伴い、ファンドレイジング活動を行っています。

今回のキャンペーンによって集めた寄付金はすべて、認定NPO法人「マギーズ東京」の運営資金に役立てていただければ…と考えています。

また、今回の活動を開始するにあたり、わたし自身も「がん」という病気についての理解を深めたいと強く思うようになりました。

先日のインタビュー記事第1回の投稿では、Xで仲良くさせていただいているフォロワーの「K」さんにインタビューを行い、Kさんの今の率直な思いや当時の心境についてブログ記事にまとめさせていただきました。

今回のインタビューは、またまた普段からXで仲良くさせていただいているフォロワーさんの「Choco」さんのエピソードになります。

Chocoさんは本業でナースをしており、ご自身もnoteにて妊活や不妊治療、そしてからだにまつわる有益な情報を、豊富な知識を活かして積極的に発信されていらっしゃいます。

今回のお話は、そんなChocoさんがご自身のお祖母さまをがんによって亡くされた際のエピソードになります。

なお、こちらのインタビュー記事に関しては、質疑応答形式ではなく、Chocoさんの体験記というかたちでお送りさせていただきますので、予めご了承いただければ幸いです。

以下は体験記の全容です。


いのちを繋ぐこと


私の家系では初めて聞いた、がん。

「おばあちゃんね、がんだった。もう、あと3ヶ月くらいだって。今から手術になる。」

実家を出て別暮らしをしていた私に、母からの電話でした。

この電話の2~3週間前あたりから、祖母の食欲がなく、あんまり食べないのだと母から聞いていました。

毎朝、早朝から騒がしくパタパタとスリッパの音を立てて家事をしていた祖母が起きてこないとも聞いており、病院に連れて行った結果の電話。


職種柄、闘病中のがん患者さんとも元がん患者さんとも出会っているものの、一緒に暮らしてきた家族のなかで、初めてのその響きの重さを感じた瞬間でした。


私が小学3年生のときから一緒に暮らしてた祖母は胆道がんで亡くなりました。

幼い頃は厳しい祖母のことが苦手で、中学高校時代はかなり反発したことも。

毎朝5時には起き、早い時間からお掃除をし、6時半に必ずラジオ体操をし、毎朝同じ朝食を食べていたのをよく覚えています。

トースト1枚と牛乳を入れたホットコーヒー。毎日毎日、ほんとに変化なくそうでした。


自分のなかでのまっすぐが大事で、芯のある女性だったのだと思います。

自分にも他人にも厳しい人でした。

生まれた時代背景もあり、男の子はキッチンに入ってはならないだとか、お箸と鉛筆は右手で扱わなくてはならないだとか、躾も昔ながらでした。

そういったことを受け入れ難いと感じた時期が長かったことは、今でも思い返すと悔やんでしまいます。


元看護師であり、元中学校の養護教諭だった祖母は、健康ネタにも詳しくて、午後に少しのお昼寝をして、夜は20時頃には寝る。

模範的な生活で、病気知らず風邪知らず。ほんとにいつも元気に動き回っていました。

なので、「がん」「末期」「3ヶ月」はイコールで結び付かないような響きで…。


そのまま詰まった胆管を通すための手術となるのですが、がんはおなかのなかでひどく拡がっており、通すことはできず。

おなかに穴を開けてドレーン ( 管 ) で外に排出させることで終わります。

他にやれることは何もない、家で看取るか病院か。

私の父母も妹もフルタイムの仕事をしていましたし、祖母が帰ってきて看られるか?が問題となりました。

幸い、家族の仕事の時間帯に差があったのと、私は距離はあるものの、行けるときになるべく行くことで無理矢理感もありましたが、帰宅することに決まりました。


お昼休みに母は一時帰宅してオムツ交換をしたり、父はドレーンで体外に留置しているバッグに胆汁が貯まったら捨てる。

どうにかこうにか祖母がひとりになる時間を少なくし、サポートしていたのではないかと思います。


もしも介護認定がすぐ受けられるものだったら、ヘルパーさんや訪問看護などを頼ることもできたのになぁと思いました。

介護認定は、申請してから調査・審査を受け、認定を受けられるまでに早くても1ヶ月はかかります。

祖母の時間は3ヶ月。

行政サービスを受けるには前述のとおり、手順や審査があります。

国の事業であり、補助やサービスを受ける訳なので当たり前ですよね。

ただ、入院患者さんが介護申請をしていない場合の急な退院にも、スムーズに自宅での生活がスタートできるような仕組みができたらいいのにな!とはこのときに思いました。

なので、祖母の場合は介護用の電動リクライニングベッドも介護申請をしてのレンタルではなく購入をしました。

他人からすると「 たった3ヶ月なのに!?」と思うのかもしれませんね。


そこからは、祖母と親しかった知り合いや親戚に連絡をして会いに来てもらったりでした。

私が実家に行くと、リビングに知らない人たちがいる!!みたいな笑

キッチンで誰かなんかしてる!!みたいな笑


それから、私と父は祖母のケアについての考え方に差がありました。衝突まではしていませんが。

私はターミナルケア ( 終末期看護 ) や他にも色々と興味があり、研修などにもよく出ていたのですが、パーソン・センタード・ケアの観点から離れているのではないか?との想いでした。

ターミナルケアは、「 人生の最終段階のケア 」のことをいいます。

病気などが進行し、治すことが難しくなったときに、その人ができるだけ苦しまず、自分らしく穏やかに過ごせるように支えるケアをすること。

例えば、痛みやつらさを和らげたり、不安な気持ちに寄り添ったり、家族との時間を大切にできるように環境を整えたり。

「 最期までその人らしく生きること 」を大事にするものです。

その人らしくあれるように、「 その人を中心としたケア 」がパーソン・センタード・ケアの考え方です。


祖母は相当な痛みに耐えていました。

でも、本当に強い人だったので「 痛い 」と訴えたり、唸ったりなどの声をあげるようなことは一度もありませんでした。

体をよじろうとするような動きが出るので、それが痛みが襲ってきたサインでした。

痛みの緩和には、モルヒネを処方されていたのですが、私はそれを使って残された時間を少しだけでも穏やかに、痛みに苦しまずに過ごさせてあげたいと父に話していました。

しかし、父はモルヒネを持続で使った場合の脳神経系の副作用を気にして、「 使わない 」と。ぼぅっとしたり、訳が分からないようになって、意志疎通もできなくなるような状態で過ごすことがいいとは思えないという意見でした。


祖母が自身で選択をするとしたらどう考えたのか、私には分かりません。

最終的には亡くなる直前の数日間程度は使ったようです。


毎日、忙しなく動き回っていた祖母が急に寝たきりとなり、寝返りすらできない状態に。

本人はきっとそれだけでもつらく、この先が不安でたまらないはずなのに、とてつもない痛みと静かに戦っているなんて…と、これはとても忍びなくつらいことでした。


また、他にもつらかったことはあります。

少し喋れるときに、「 もう少し経ったら元気になってくるかな 」と言っていたこと。


祖母の部屋に数ヵ月前の受診の検査データが置いてあり、何気なく見ると明らかな緊急度の高い異常値があったこと。

祖母は体調不良でこっそりと受診をしていて、状況は医師から聞いて分かってひとりで決断をしていたのだと思います。


また、病気が分かる少し前に古いアルバムを出してきて、私に自分の親や兄弟、親族を教えてくれたことがありました。

私はあのときに興味を持った姿勢で祖母の話を聞いてあげられてたかな…と、何度も思い出しては自分を責めるようなつらい気持ちになりました。


本人は分かっていたのだろうな…不安だっただろうな…と思うと、堪らない気持ちになりましたし、今でも思い返すとその気持ちは甦ります。

また、このとき真冬だったのですが、氷のアイスが食べたいと言い、私が買って行って食べさせてあげました。

ほんの少ししか食べられなかったけれど、「おーいしい」と小さな声で言っていました。

死が近づく方は全員ではありませんが、冷たいものを欲することがあります。

これも悲しいと感じた出来事でした。


結局、祖母はがんが分かってから2ヶ月経たずして亡くなりました。

本当にあっという間で、あっけなくて。人の命の儚さと、だからこその重さを改めて感じました。

その日は前が見えなくなるほど泣きながら運転をしたのを覚えています。

「 あぁ、人は後悔というものを必ずするようにできているんだろうな 」と思いました。


告別式では教え子さんも来てくださったり、家族親戚たくさんの人に見送られて祖母は旅立ちました。告別式を終えた空に虹がかかっていたことも忘れません。

おじいちゃんがそこまで迎えに来てくれたのかな?とみんなで話しました。


子どもの頃、ときどき祖母が一品か二品おかずを作ってくれたりしていたのですが、特に田作りは絶品で大好きでした。

お店で買うものとは全然違う、独特の食感。

後に作り方を教えてもらい何度も作り、私の得意な料理のなかのひとつです。

もうかなり前のことですが、知り合いに作り方を教えてと言われたり、たくさん作ってお裾分けしたり。コロナ前なんかは職場でお昼にみんなで食べたり。

私がその味を継げたこと、繋げていけることは有り難く光栄なことと思っています。

これも、いのちを繋ぐことの一部。私にはそう思えるのです。


今回、こうしてお話をする機会を作ってくださりありがとうございました。

こうして年月を経て振り返ることができ、私としても本当に良い経験となりました。

久しぶりに祖母の田作り、作ろうかな。



Chocoさんの体験記は以上です。

今回、Chocoさんの体験記を読んでいて、「パーソン・センタード・ケア」「ターミナルケア」といった医療にまつわる用語がいくつか出てきました。

こういった用語の意味するところや考え方について普段から意識しておくだけでも、いざという時に役に立つだけではなく、ご家族間でなにか重要な決断を迫られた際にも落ち着いて対処ができるのではないか、と思います。

そしてChocoさんが感じた「 あぁ、人は後悔というものを必ずするようにできているんだろうな 」という気持ち。

これはわたしも読んでいて痛いほど伝わってきました。

病気が発覚してから亡くなるまでの期間がとても短いと、「あのときもっとこうしてあげたらよかったんじゃないか」という後悔の念がより強まるような気がしています。

しかしChocoさんはお祖母さまが生前よく作られていた田作りの味を受け継ぎ、今も得意料理のひとつとしてよく振る舞っているとのこと。

こういったかたちでその人が確かに生きていた証、そして命が繋がれていることを実感できるのは、とても素敵なことだと思いました。


お忙しい中、インタビューにご協力くださったChocoさん、本当にありがとうございました。


今後もこういったかたちで「がん」にまつわるエピソードをお持ちの方へインタビューを行っていきたいと思っています。

取材にご協力いただける方がいらっしゃいましたら、わたしのXアカウントのほうへDMをくださるととても嬉しいです。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。


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代表:秋山正子

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