海老川と船橋の地名の由来~ハードボイルド風
2023/3/24 07:50
引き続き、「最強読書日記」著者の廣瀬さんより、船橋愛あふれる寄稿です!
●海老川と船橋の地名の由来
ウィキペディアの「船橋市」の項を見ると、船橋市の昔の地形図がある。俺の住んでいる宮本町の西側一帯がかなり広い範囲で夏見入り江という海になっている。戦国末期まではこんな感じだったらしい。そう言えば宮本町の南端にある船橋大神宮には燈台がある。昔は陸地がそこまでだったらしい。
船橋大神宮の「灯明台」
JR船橋駅周辺の中心街は六千年前の縄文時代には海であった。というか船橋市という存在自体が無くて、強いて言えば「夏見湾」とでも呼ぶべき「へこみ」があっただけだった。
その「夏見湾」の西から長津川、東から飯山満川と前原川が流れ込み、河口付近で縄文期の人々が暮らしていた。その名残が相当数の貝塚として今に残る。西側の長津川が運ぶ土砂が西から回り込む東京湾の海流に押されて「砂州」を形成し始めるのは縄文後期らしい。この砂州は突然現れた巨人の右腕のように「夏見湾」を横切り東側の宮本台地に向かって成長していった。こうして「夏見湾」は「夏見入り江」となる。
この「腕」は成長を続けて東側の台地とほとんどつながった状態にまでなる。その隙間に舟を並べ、板を渡して二つの陸地を繋ぐ橋を作ったことで「船橋」という地名が生まれる。まあ、最後のところは伝説レベルだが。
川の運ぶ土砂の堆積と海面の後退は続き、この時点で「夏見入り江」は干潮時には海としての機能を果たさなくなっており「夏見潟」となる。長津川、飯山満川、前原川は潟の中央で合流して「海老川」が本流として出現する。満潮時にも「澪(みお)」としてこの川が主要な航路となった。(ひ)
情報ステーション事務所の向かいにある和菓子屋「廣瀬直船堂」さんの明治期の写真。著者とは関係ありません。
← 活動報告一覧へ戻る