「人生、詰んだ」分娩台で涙したあの日の私に。の画像
Birthday Ribbonの画像

Kaori Noda(野田香織)

支援総額

146,603円

/ 300,000円

146%
100%
  • 支援総額

    146,603円

  • 支援者数

    59人

  • 残り

    終了

  • 開始日

    2021年3月7日

  • 終了日

    2021年3月22日

たくさんの愛を受け止めるのメインビジュアル

キャンペーンがおわって、3週間が過ぎました。

先日マドレボニータ事務局から今回のキャンペーンにご参加いただいたみなさんに活動報告の御礼メールを送付していただきました。皆さんからお預かりしたご寄付は、総額 146,603円にもなりました。

これは大変ありがたいお金ではあるのですが、わたしが受け取ったのは皆さんからの「愛」だとおもっています。


そう。まさに「私は愛されている」ということを皆さんから教えていただいた2週間でした。
 

以下、ご寄付いただいた方へお送りしたメールと重複するところもありますが、こちらでも置かせてください。

最初は、誕生日を心から喜べない自分を変えたくて、ひっそりはじめたプロジェクトでした。

同時に、長女が20歳になったことで「母親」という役割に、区切りをつけないといけないとおもっていたタイミングで、どうにも心にひっかかっていたできごとを書き留めてみたら、産前産後の私が抱いていた「成仏できていない感情」が湧きおこり、生命の誕生を心から喜べない理由はこんなところにもあったのかとあらたな気づきも多くありました。

当時のエピソードをつらつらと書いてみたら「全く知らなった!」というリアクションが大半で、これまでの私は過去の「みじめったらしい自分」を隠して生きてきたということを思い知らされました。(見る人からみたらバレバレだったことでしょう)

じつは昨年からアメリカのドラッカースクールで教鞭をとっているジェレミーハンター教授のトランジションというプログラムを受けています。

トランジションは「過渡期」とか「移行」などと訳されることもありますが、私が感じているのは「旧いパラダイムが去り、新しいものに入れ替わる」であり、実際のプログラムでも「終わっているものを完了させる」儀式があります。

そこで先日わたしは「お母さん」である自分を終わらせようとおもい母子手帳を捨てるという儀式をやりました。(実際には捨てたらいけないものだそうで、写真を捨てたのですが)


儀式の最中、言葉では言い表せない感情が湧きおこり、感情も制御できなくなって子どものように声を出して泣きました。そして、子どもの頃のエピソードをありありと思い出したのです。

私は小学生のころ、大きな衣装タンスのなかに大切にしまってある、自分の母子手帳を読むのが大好きでした。

妊娠中の腹囲、出生時の体重や身長、産まれた時間や出血量以外は〇ヵ月ごろには首が座り…みたいな別にたいして何も書いていない手帳なんですが、なぜかそれを眺めるのが好きだったのです。

それを見ながら、小学生の私は「将来はすばらしいお母さんになる」って決めてたことも思い出しました。だけど、いざ母親になったら、想定外のことばかりで叶わなかった。冷たい分娩台の上でたったひとり、とてもみじめな気持ちでした。(これは比喩ではなくて、ほんとうにベッドが冷たくて、全身ガクガクと1時間以上震えが止まらなかった)


ジェレミーさんに「当時の自分に掛けてあげたい言葉はある?」と聞かれました。あまり言葉は思い浮かばないけど、ただ抱きしめてあげたいとおもいました。


みなさん、たくさんの愛をありがとうございました。いつになるかわかりませんが、みなさんと目と目をみながらお話できる日ができる日が来ることを楽しみにしています。


<追伸>わたしが受けているジェレミーハンターさんのセッション、ごく一部ではありますが無料で体験できるイベントを企画しました。良かったらご参加ください。エッセンスは味わえるかと思います。

<おまけ>最近の長女さん。お友だちと京都で和服デート。いったい彼氏はいつできるのでしょうか。見た目も性格も悪くはないとおもうのですが、理想が高くてなかなかご縁がありません…(ただ理想は下げてほしくない)

ちっぽけな私も、おおきな私も。のメインビジュアル

前回、「あるがままを受け入れる」この言葉の意味をうわべだけで解釈しちゃうのは危険だよ、ということを書きました。

今思えば昔のわたしは「目の前にある現実はすべて受け入れるべき」と理解していたのだとおもいます。

わたしたちはただでさえ、原因と結果の世界の中で生きています。現実に起きるできごとには、それを引き起こす原因があり、それはすべてつながっているということ。果たして本当にそうなのか、疑うこともしないまま、原因を、理由を見つけようとします。それは「あるがままを受け入れる」世界とはまったく違う。いまの私ならはっきりとそう言えますが、当時はわかりませんでした。

妊娠も、出産も、産後も、心のどこかに自分の理想があって、現実がそれとは違った。何がそれを引き寄せたのかを考えれば、すべてが「わたし」で、わたしが引き起こしたことなんだから、その結果はすべて引き受けるべき。そういう思い込みがあったのだとおもいます。

ほんとうに受け入れるべきだったのは「不本意な現実を受け止めきれない自分」のほう。つらかった、悲しかった、腹が立った、悔しかった、怖かった、苦しかった…その感情を受け入れてあげるべきでした。 

ここまで読んでくださったかたのなかには、不思議におもったかたもいるかもしれません。赤ちゃんの父親の存在がほとんどでてきてないことに。

当然ですが、父親はいます。ちゃんと認知もしてもらい、その後は結婚もし、二人目も授かりました。数年後にお別れしてしまいましたが、その後も離れたところで成長を見守っているとおもいます。

でも、残念なことに、初めての出産・産後のできごとにほとんど彼は入ってきません。それはわたしが、心のどこかで排除していたからだとおもいます。妊娠中のつらかったこと、苦しかったときも、あまり口にはしてませんでした。大切にされたいとおもいながらも、それがうまく表現できなかった。悲しいですね…。今さらながらごめんなさいです。

あれからもう20年も経って、自分でいうのもなんですが、ずいぶんと成熟したなぁとおもいます。子どもという生き物との生活は、予想がつかないことばかりで、笑ったり、泣いたり、怒ったり、もういろんなことがありました。ひとり親としての人生のことも、どこかで書けたらいいなぁ。

ここまでお付き合いくださった皆さん、ほんとうにありがとうございました。さっき「今さらながらごめんなさい」を書いた瞬間に、ぼろぼろと涙がこぼれました。これがずっと言いたかったのかもしれません。

とっても恥ずかしい過去の話をたくさん書きましたが、昔のちっぽけな私も、いまは大好きです。えらいね、頑張ったね、って、おおきな自分で包んであげたいです。


あるがままを受け入れること、の意味のメインビジュアル

前回、わたしがNICU(新生児集中治療室)で過ごした時間についてお話しました。

「あるがままを受け入れられること」これは、おそらくすべての人が求めている、根源的なニーズなのかなとおもいます。

ただ、この言葉をうわべだけで解釈するのは少し危険だなとおもいます。なぜならわたしは、予期せぬ妊娠も、早産も、小さく生まれた赤ちゃんも「あるがままを受け入れられる」人間になるための神様が仕組んでくださった修行だとおもいこんでいたから。


11月28日に生まれてきた小さな赤ちゃんは、少しずつ成長。徐々に力もついて自力でミルクも飲めるようになり、呼吸や体温も安定するようになりました。脳波などの検査でも異常は見つからず、あとは毎月の定期健診で成長の様子をみながら自宅で過ごしてもいいですよ、と。

なんだかんだとNICUの居心地がよかったので、未知の世界に放りだされるような不安がありました。ぎりぎり年末まで粘って、ようやく実家に…。退院するときは、2780グラムになっていました。(ふつうの新生児ちゃんぐらいの大きさでしょうか)

病院での経過観察のため、しばらくは実家で過ごすことにしました。その「しばらく」は、なんと7か月も続いてしまいました。 

続いてしまいました…ということは、つまり良くなかったことと後悔しているのですが、なにせ東京には風呂なしボロアパートしか住まいがなく、この小さな子を連れて帰ることはできなかったのです。

実家にいたら、母も妹もいたし、何かあればすぐに助けてもらえる環境でした。ぐずぐずいって泣き止まない時も、湿疹だらけになった時も、一緒になってあたふたしてくれるひとがいるというのは、とても心強いです。

退院しておうちで過ごせるようになってから、あっという間にぷくぷくとした赤ちゃんになりました。そのころには友人にも連絡を取り赤ちゃんを見に来てもらったりもしました。

そして、産後7か月を過ぎたころ、ようやく東京に戻ります。そこから見事に1歳半を過ぎるまで「ほぼひきこもり生活」をしてしまいました。赤ちゃん連れでふらっと行けるような児童館や公園にいっても、誰ともうまく話せないし、とにかく居心地が悪かった。ママ友なんてつまらないし、くだらない。

かといって、子どもがいない友だちといても、仕事や恋愛の悩みを聞いてもうらやましい気持ちしか湧いてこなかった。「なんでだけわたしだけがこんなことになってしまったのだろう」と被害者意識でいっぱいだった。

仕事もしてなかったから、お金もないし、自分のものを買うこともできなかった。食事も一日一食とるのが精いっぱい。当時の連れ合いに「今日はどうだった?」ってきかれても「特になにも。」しか応えられない。毎日、生きているのか、死んでいるのか、いつ起きて、いつ寝たかもわからない感じでした。

いまおもえば、軽いうつ状態だったのだとおもいますが、分娩台で「人生、詰んだ」と悟った身としては、死んだように生きるのは当たり前で、自分のおかしさには気づいていませんでした。



余談ですが、はるか昔、マドレボニータのインストラクターをやっていた時、毎日更新していたブログと不定期発行のニューズレターがあったのですが、そのタイトルも『arimama voice(ありままヴォイス)』でした。20代のとき、お芝居を教えてくださったお師匠から「かおり、”ありのまま”でいい。」と励まされたことがあり、忘れたくない言葉としていろんなところに仕掛けておいたのです。LIVE YOUR LIFEと同じぐらい常に心においている大切な言葉です。


懐かしい紙のニューズレター、手書きイラストも入れてつくってましたが、みごとに産後とお笑いのことしか書いてない…!!!

あたたかい部屋のなかで。のメインビジュアル

昨日は小さく生まれた赤ちゃんとの初対面の話を書きました。(

ふっと湧いてきた言葉の「ごめんね」は、いわゆる謝罪やおわびの言葉ではなく。当然、誰かにぶつけたり、赦しを乞いたいわけでもない。


自分自身のふがいなさとか、無力さとか、心苦しさから出てきたもので、自分でも気づかぬうちに、心のどこかから湧いてくる感情で。


おそれずにいうなら、当時のわたしにとって、目の前にいる小さな赤ちゃんは「不本意なできごと」だったのだとおもいます。(ほんとうにひどい)

わたしは4人姉妹の長女で、これまで大きな病気やけがもなく育ってきた。身近な家族や、まわりの友達に重い病気を抱えた人や、障がいをもった人もいなかった。わたしの母は4人の子どもを産み育ててきたが、何のトラブルもなかった。それしか知らなかったから、自分が思い描いていた、妊娠・出産・子育てのイメージと、いま自分が置かれている現実が違いすぎて、ショックを受けていたのだとおもう。

友人や親せきにも出産したことは報告しなかった。妊娠したことも、結婚したことも、赤ちゃんを産んだことも、そして産まれた赤ちゃんは小さくてこれから何が起きるかわからないと言われたことも。いろいろ聞かれても、説明するのはつらくてしんどくなるだけだから。

そんなとき、いちばん心がほっとするのはNICU(新生児集中治療室)にいる時間だった。眠っている赤ちゃんのそばにいて、そこでどんな風に過ごそうが、泣いたり笑ったりどんな気持ちでいようが、あるがままに受け入れてくれるあたたかい部屋。保育器のなかにいる赤ちゃんと一緒だ。小児科の先生や看護師さんもそばにはいたけど、放っておいてくれることがありがたかった。

NICUでは1か月ちょっとを過ごした。そこではいろんな親子と出会った。1000グラムも満たない双子の赤ちゃん、逆に5000グラム以上で出てきた生まれたての赤ちゃんもいた。(大きいのもかなり珍しいらしく、記念に抱っこさせてもらった)生まれてから一度も外の世界を見たことがない子もいたし、みんなに見守られながら旅立つ赤ちゃんもいた。

暗くてつらい思い出が多い子ども時代だったから、大人になったら自分の好きなことをしたいとおもって、ほんとうに好きなように生きてきた。20代はやりたいことを全部やろうと決めていた。子どもを産むこともそのうちの一つのつもりだったけど、自分の意思ではどうにもならないことがあるということを身をもって知った。そして、この世にはわたしが知らないことがたくさんあるって知った。


ご寄付いただいたみなさん、ありがとうございます。この記事をみて、ご寄付いただいた方もいらっしゃいました。ほんとうにうれしいです!

ストレッチゴールを設定させていただきました。お預かりしたご寄付は、産後のからだやこころの実態を調査する「産後白書」プロジェクトの活動に活用させていただきたいとおもいます。

2009年3月に出版した「産後白書」は、620名もの産後女性にご協力いただき、産後のリアルをまとめた冊子です。多くの産後女性の共感を得ることができ、メディアにも大きく取り上げていただきました。

冊子としての販売は一時休止しているのですが、データ版として配布することや、初版から12年が経ったこともあり、同じ調査をもう一度やってみてはどうかという声もいただいております。よかったらみなさんのニーズも聴かせてください。引き続き、応援いただけるとうれしいです。




〒1500001

東京都渋谷区神宮前6-23-4桑野ビル2階

代表:山本裕子、中桐昌子