🌟応援コラム⑥🌟山田孝介(NPO法人オレンジの会)
2025/3/20 09:30

「ひきこもりは社会の犠牲者」
最近こうした政治的フレーズをよく目にするが、あまりに短絡的な視点だと思う。当たり前の話だが、世の中には主体的にひきこもっている人も数多く存在しているからだ。
しかし今、そんなことを訴える人は少なくなった。90~00年代はひきこもりが新しい文化を作る担い手として大きく期待されている時期があった。しかし、それが打って変わり今では、ひきこもりはケアされるべき存在としての立場が確立されつつある。
おそらく、私の未来予測として、ひきこもりはどんどんと福祉の範疇に収められていくのだろう。そして同時にそれはひきこもりが自由からどんどん遠ざかることを意味する。
出来ることならひきこもりを政治から遠ざけたい。
政治は善と悪、友と敵を分け、何が正しいかを決める戦いへの導線を引いてしまうことがある。
ひきこもりはもっと愚かで不真面目で優柔不断でいい。政治なんてしなくていい。
私はいつもそう思っている。しかし、現実はそれを許してくれない。私みたいな立場で政治的なスタンスを取らないとなると、お前は社会問題に無関心で無責任だという烙印を押されてしまう。それは近年、当事者と言われる人たちもそうだと思う。
そんな状況に正直疲れている。いや、年々疲れが増してきているという方が正確かもしれない。この際限のない疲れが絶えずやってくるのかと思うと死にたくなる。
政治化するということは、それぞれが自分の正しさを主張し戦うことを余儀なくされる世界が生み出されるということだ。政治化がどんどん先鋭化すると、勝ち負けがより重要となり、発信される言葉は社会情勢を取り込みながらどんどんと更新されていく。それはRPGゲームのようであり、ストーリーが進むにつれ現れる敵を倒すためにどんどんと武器のレベルを上げないといけなくなるのに似ている。
政治的な戦いは愚かであることや不真面目であることを許してくれない。優柔不断などというポジションは用意されていない。みんな政治に巻き込まれる。そしていつの間にか政治は身体をパブリックなものへと変化させ巨悪を倒すための連帯を促す。最悪だ。
この最悪なサイクルからいつも抜けたいと思っている。救いが欲しい。
そう思って辺りを見渡したとき、ありがたいことに政治から逃れている団体がいくつかある。その一つがウィークタイだった。
ここでは自分の立場性について意識しなくてもすごせる空気がある。いや、立場性が食い違ったとしても政治化しなくていい配慮がある。時にシリアスになりすぎた時も誰かが茶化してくれる。突っ込んでくれる。愚かで不真面目で優柔不断であることを許してくれている。なぜかいつもクラフトビールがある。ウィスキーがある。テキーラがある。健全ではない。極めて不真面目だ。
30年前、父親に連れられ不登校児が集まる居場所に連れていかれたことがあった。そこは自分にとって初めての居場所という空間であり、不思議な体験でもあった。何が不思議だったか。昼間から大人と子どもが一緒にマージャンで遊び、酒を飲み、他愛もない話をしているのだ。そこに大人と子どもの線引きはなかった。子どもながら多分ここはよくないところなのだろうと思っていたはずだ。事実その場にいた大人に酒をすすめられるなど煩わしいこともあった。子どもには刺激たっぷりの卑猥な話しが笑いとともに大きな声で飛び交っていた。大人たちは戸惑う私を見て喜ぶのだ。
夕方になり父親に帰宅を促されたころには、ほっとした反面、現実に戻らないといけない妙な寂しさがあった。
今思い返してもその寂しさは言語化できない。ただ、政治には回収できない、普通に生活していれば触れることのできない基準がそこにはあったように思う。今でもその余韻を思い出す。
自分は40歳になった。時々、何をやりたくてこの業界に足を突っ込んだのかをよく考える。考えながら目を瞑ってみると広がる光景は初めて行ったあの居場所だった。そこにはウィークタイと同様に「愚かさ」があり「不真面目さ」がはびこり「優柔不断」が広がっていた。ずっとあの日常の中でだらだら過ごしたかったのではないかと思うときがある。
正直しんどい。こんなに政治的なことばかりやらなければならない人生ではなかった。友も増えれば敵も増える地獄のような毎日だ。
もう一度言う。自分は40になった。原点を見つめなおしたい。このなんでも政治化される時代で、自分が夢見ていた空間を作ろうしているウィークタイを応援したい。
山田孝介(NPO法人オレンジの会 理事長、名古屋市ひきこもり地域支援センター金山 センター長)
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以下は、代表からの応答コラムになります——
ウィークタイは「愚か」で「不真面目」で「優柔不断」で「健全ではない」ということである。
これが応援メッセージであるのだから大したものだ。
私たちはこれからすぐに荷造りをして、「山田孝介氏の真意を問う!」と題して仲間らを動員し、名古屋のオレンジの会事業所前で街宣と抗議集会をしようかと思う。テントを張って、火を焚き、「支援者の横暴を許すな!」「暴力的支援反対!」「ひきこもりは社会の犠牲者!」などと叫びながら、夜通し路上で酒を飲んで鍋をつつくのだ——
さてのっけから山田氏が「ひきこもりを政治から遠ざけたい」と憚らずに書いているのをみて、「”ひきこもり”を対等な立場にある者としてみているのであれば、一方的に”遠ざけたい”などとは言わないだろう。これは支援者によるパターナリズムだ。」などと思う人がいるのかもしれない。非常に残念なことだが、もしもそういう人がいるのだとすれば、これこそが山田氏の嘆きの本質である。
あらゆることが「政治」として語られる時代になった。それはつまり、全てが「善」と「悪」、「正義」と「敵」に分けられる世界が生まれたということだ。人間の言葉や行動は、何かしらの「立場性」によって解釈され、整理され、善し悪しを決められる。愚かさや優柔不断といった、人間の持つ曖昧さは許されなくなる。それどころか、「ろくでもなさ」すら政治的な意味を持たせられてしまうのだ。
かつてのひきこもり当事者活動には、こうした政治性とは無縁な「人間のろくでもなさに対する肯定」があったのだろう。幼少の山田氏が「ひきこもり」青年らの居場所で見てきたものは、善悪の枠組みでは測れない、もっと得体の知れない、そしてだからこそ救いになる「何か」だったのではないか。おそらく彼にとって、その経験は人生を決定づけるほどの大きなものだったのだろう。でなければ、この「文学青年」が、なぜ大人になってなお「ひきこもり」に縛り付けられ、嘆きながらもその世界に関わり続けているのか説明がつかない。
今、「ひきこもり」の当事者たちは、福祉や医療の文脈の中で「社会の犠牲者」としてのみ語られ、何も発することができず、小さく、弱い存在であることを前提とされている。彼らはケアとセラピーの対象であり、社会的に「保護されるべき」存在として位置づけられつつある。そのような視点が不要であるとは全く言わない。しかしそうした視点が行き過ぎると、「ひきこもり」は何もできず、何も生産せず、社会にとってただの負担でしかないものとして扱われるようになる。でも思い出して欲しい。かつては「ひきこもりが新しい文化を作る」と期待されていた時代があったのだ。この変化を、私たちはどう受け止めるべきなのか。山田氏は、こんな時代の流れの中で「いいや、ひきこもりは小さくない」「いいや、ひきこもりには強さがある」「いいや、ひきこもりこそ次代を創る存在だ」と真剣に訴えている。その声は、ほとんど「当事者活動」ではないかと思う。
さて私は今、この時代にこその、「ひきこもり」にしかできない政治の表現形を考えたい。 それは、おおよそ一般的に言われる「政治活動」とは程遠いもので、例えば とよなかリレーションハウスでやる気なく昼から酒を飲んで寝ている人の生き様 の中にある。 あるいは、みんなでたこ焼きを焼いて食いながら「誰か1億くらい寄付してくれねーかな」とか言い合う空間 の中にある。そこには「政治的な正しさ」といったものはない。 しかし、それは「生きること」に対する、何よりも強い「肯定」である。
ウィークタイは、こういう場を保ち続けたいと思う。
泉翔(NPO法人ウィークタイ 代表理事)
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