ストーリー
8月25日は私の誕生日。沖縄が日本という国に“復帰”して50年を迎えた今年の誕生日は、沖縄で迎えました。
昨年に引き続き、バースデードネーションのお知らせです。
2021年はヘルメット企画でした(ご協力いただいたみなさんに改めて感謝です!!)が、2022年は、今年の「沖縄平和賞」に選ばれた「ひめゆり平和祈念資料館」への寄付企画です。
画面右下の「支援する」ボタンで500円から寄付できます!
沖縄戦の記憶を確かに残すためのアクションとして、ご参加いただけたらうれしいです。
※ 寄付金は決済にかかる手数料と利用料を除いた全額が団体へ寄付されます。
■ 私と平和祈念資料館との繋がり
初めて訪れたのは1996年~2000年の、琉球大学在学中だったと思います。体験者の手記を読んでボロボロ泣いた記憶があります。
次に訪れたのは2016年の6月。福島県双葉町の復興支援・コミュニティ支援に共に従事していた友人と一緒に。この時は、沖縄戦で命を落とした学徒たちの写真に添えられた説明にグッときました。
「弟思いでやさしい人でした」「バレーボールが得意ではつらつとしていました」
近所のお姉さん、中学の同級生、ひめゆり学徒のみなさんをそんな距離感で想像し、戦争によって彼女たちの未来が絶たれたことをリアルに感じました。
次が今年の6月23日。沖縄慰霊の日。そしてつい最近8月17日にも行ってきました。
昨年またリニューアルされ、ひめゆり学徒のみなさんの日常がより伝わる展示で、戦争は普通の生活にある日すーっと入ってきて、どんどん存在感を増し、感覚を麻痺させ、大事なものを壊し、奪う、そういうものだと伝えています。
■ 私が平和祈念資料館のために寄付を集めようと思ったきっかけ
私は5月末に東京から沖縄に移りました。沖縄に来て強烈に感じるのは、「地上戦があった土地に暮らすことの重み」です。
日本本土には、原爆が投下され、主要都市への大空襲があり、壊滅した地域も多くあります。沖縄は、暮らしの場所が殺戮の場所になりました。敵兵に命を狙われるだけではありません。戦闘の妨げになると自決を強いられたり、家族を自分の手にかけなければならなかったり、沖縄の方言がわからない日本兵に「スパイ」とみなされ殺されたり、そういう場所になりました。
悲しい辛い苦しい思い出のある場所を訪れ、その当時の気持ちが蘇るという体験をしたことはありませんか?においや、気温や、季節感や、聞こえてくる音楽や人の声によって感情が引き戻される感じ。思い出したくないのに。
沖縄戦の記憶は、もっともっと思い出したくない、もはやそんなレベルでもないもので、PTSDに苦しみ続けている方も多いと聞きます。「花火の音が怖い」という体験者もいらっしゃると。そんな人たちが暮らす空の上を、今日もオスプレイや米軍機が「これ、墜落する?」と思うほどの低空を轟音とともに飛んでいます。
沖縄戦を経験した方々が「戦争はダメ」と言うならダメでしょう。そのくらいシンプルなことだと私は思います。沖縄戦の記憶を確かに残していかなければ、そのロジックの根拠が失われることにもなり得ると思い、今年のバースデードネーションはこれだ!!となりました。
■ 寄付金の使いみち
ひめゆり平和祈念資料館は、2020年からのコロナ禍で来館者が激減し、存続の危機にあります。クラウドファンディングやこのシンカブルを通した寄付の仕組みなど、運営を続ける取り組みがなされています。
並行して行われた展示のリニューアル。体験を語れる方々の不在が年々大きくなっていく中、どう継承するのかに真摯に向き合う資料館の在り方は、2022年の「沖縄平和賞」受賞という形で、改めて評価されました。
ひめゆり平和祈念資料館は、開館、リニューアル、継承、その都度その大切さを自分事として引き受け、行動した方々によって今もあるのだと思います。
先日訪れた時に初めて、入口の碑に気づきました。
「このひめゆりの塔の聖域二千坪は1951年 読谷村出身ハワイ二世儀間真一氏により寄贈されたものです」
ギマさんの寄贈の前は、敷地は荒れていたのだそうです。
私は私とつながりのあるみなさんと一緒に、ひめゆり平和祈念資料館がこれからもひめゆり学徒隊の記憶、記録を通じて、確かに沖縄戦という事実が伝えられていくことに貢献したいです!
このバースデードネーションは手数料以外全額、ひめゆり平和祈念資料館に寄付されます。
ご参加いただいたみなさんと一緒に資料館を訪れ、感想など共有する時間が作れたらなお幸せです。どうぞよろしくお願いします(^-^)