設立経緯②
2020/5/14 16:41
【そして退職へ】
施設を退職する直前、ひとりの利用者さんAさん(入所型施設利用者)が亡くなりました。時を同じくして、ぼくがバイトでヘルパー活動をしていた時に行ってたBさん(自宅で生活していた)が亡くなりました。
Aさんのお葬式はぼく含めた施設職員16人。そして年1回の施設みんなでの旅行の写真25年分。あとは25年分のケース記録。
Bさんのお葬式は福祉関係者40人ほど、地域の方々60人ほど。葬儀場には本人が好きだった六甲おろしが流れてました
正直どっちがいいかと言われると、ぼくはたくさんの人に見送ってほしいなあという気持ちになりました。惜しまれたいし自分の話をみんなでしてほしい。
と同時に施設福祉をぶっこわす!というよりも地域福祉をおもしろく楽しそうに表現してれば、施設に入ってるしょうがいある方も地域での生活を選ぶだろう。という思いを強くしました。
自分は職場を選べるけど、この施設にいる人はほぼ選べない。そんなパワーバランスの中、自分だけ退職するのは後ろ髪ひかれる思いでしたが、地域福祉をおもしろくする!という目標をもって、施設を退職しました。
【そしてそして転職へ】
転職先はヘルパー派遣事業所でした。抱え方、接し方、しょうがいある本人さんへの寄り添い方。全てが教科書でみた地域福祉の理想そのものでした。
すごい。学校で学んだものが目の前で行われている。支援者としてこの一挙手一投足、発言雰囲気などなど『しょうがいある本人にとってどうなのか?』
全ての判断基準がそこでした。それはぼくにとってとてもうれしく、わかりやすく、全力だせるぞ!という環境でした
【転機になったひとこと】
車いすの当時中学生の男の子のところに、月に3~4回の外出支援、週に1回の入浴介助を行っていました。そうしたルーティーンが1年たったころ、その車いすの子がいいました
『清田さんぼく相談があるんです』
『なに?』
『ぼく、友達がほしいんです』
20代だったぼくは、正直自分なりに仲良くやってるつもりでした。しかし17時になったらハンコもらって帰るのは友達ではない。病気の時に心配してきてくれないのは友達ではない。福祉の制度を使って関わってる以上、どこまでいっても友達にはなれない。
ここで福祉制度の限界と、ぼくらがやる支援という形には、『友達をつくれそうな場、しょうがいある本人さんの人となりがわかるような場を設定する』も含まれるのだなと感じました。
ああっと!長いわりに設立までいかなかったです!続きはまた書きますー。
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